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東京駅雑学20選

東京駅の丸の内口と八重洲口はなぜその名前?地名の由来を解説

第14話 / 全20話

東京駅の西側は丸の内口、東側は八重洲口と呼ばれます。丸の内と八重洲の地名はどこから来たのか、江戸時代から現在までの歴史を分かりやすく解説します。

東京駅には、西側に丸の内口、東側に八重洲口があります。

同じ駅の反対側にすぎないのに、名前はまったく違います。

東京駅の丸の内口・八重洲口の名前の由来は、どちらも江戸時代までさかのぼります。なかでも八重洲は、約400年前に日本へ来たオランダ人の名に由来するとされる、珍しい地名です。

結論:丸の内口と八重洲口の名前はどこから?

先に答えをまとめます。

  • 丸の内口は、東京駅西側の丸の内地区へ通じる出口です
  • 八重洲口は、東京駅東側の八重洲地区へ通じる出口です
  • 「丸の内」は、江戸城の堀に囲まれた内側の区域を表す地名です
  • 「八重洲」は、オランダ人ヤン・ヨーステンの日本名に由来するとされています

ここで押さえておきたいのが、ヤン・ヨーステンに由来する「八代洲河岸」や旧八重洲町が、現在の東京駅西側にあったという点です。現在の中央区八重洲一・二丁目は、のちの町名変更によって東京駅東側に成立しました。

丸の内の名前の由来

「丸」は城の区画のこと

「丸」は、丸い形を意味しているのではありません。本丸、二の丸、三の丸というように、城郭の区画を指す言葉です。

東京の「丸の内」は、江戸城の内堀と外堀に囲まれた内側の区域を表す地名です。「丸い形の場所」という意味ではありません。

大名屋敷が並んでいた区域

江戸時代、この区域には大名屋敷が並んでいました。一帯は「御曲輪内(おくるわうち)」などと呼ばれ、屋敷の間を通る道は大名小路と呼ばれています。

ただし、これらは現在の住居表示のような町名とは性格の異なる、地域や道路を表す呼称でした。

陸軍用地からオフィス街へ

明治維新後、大名屋敷はなくなり、この一帯は官有地となって陸軍の用地などに使われました。

1890年(明治23年)、その土地が三菱へ払い下げられます。以後、レンガ造の洋風建築が並ぶ街として開発が進み、近代的なオフィス街へ姿を変えました。

現在の「丸の内」という町名は、こうした変化と近代の町名整理を経て定着したものです。

八重洲の名前の由来

オランダ人航海士ヤン・ヨーステン

1600年(慶長5年)、オランダ船リーフデ号が豊後(現在の大分県)に漂着しました。その乗組員のひとりが、ヤン・ヨーステンです。

彼は徳川家康に仕え、通訳や海外との交渉などに関わったとされています。同じリーフデ号に乗っていたイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)と並び、江戸初期の対外交渉に関わった人物です。

「耶楊子」から「八重洲」へ

ヤン・ヨーステンの名は日本で「やよす」などと呼ばれ、「耶楊子」「耶揚子」などの字があてられました。

その名にちなみ、屋敷の周辺が「やよす河岸」と呼ばれ、史料には「八代洲河岸」などの表記も見られます。これが後世の「八重洲」につながったとされています。

屋敷があったとされる場所

ここが重要な点です。

ヤン・ヨーステンが拝領した邸地は、江戸城の内堀沿い、和田倉門付近にあったと伝えられています。現在の地理では、東京駅の八重洲側ではなく、丸の内側に近い区域です。

江戸時代後期の切絵図にも、この付近に「八代洲河岸」の文字が見られます。つまり地名の起こりは、今の八重洲ではなく、駅を挟んだ反対側だったのです。

なぜ八重洲の地名は現在の場所にある?

地名がたどった流れを整理します。

時期 八重洲の位置・名称
江戸時代 和田倉門付近の堀沿いが「八代洲河岸」などと呼ばれる(現在の丸の内側)
明治初期 内堀沿いの区域に八重洲町の町名が置かれ、現在の丸の内側に地名が残った
1914年以降 東京駅の開業と周辺整備により、旧八重洲町の位置関係や区域が大きく変化
1929年(昭和4年) 駅西側に残っていた八重洲町の町名が丸ノ内へ改められ、東側には新たな出入口が開設
1954年(昭和29年) 東京駅東側の区域に「八重洲」の町名が採用され、現在の地名へつながる

もともと駅の西側にあった町名が、東京駅の建設と町名整理の中で姿を消し、戦後、東京駅東側の町名として改めて採用された。これが実際の経緯です。

旧八重洲町、八重洲橋、東側の出入口、現在の八重洲という名称のつながりをたどると、地名が外堀を越えて東側へ受け継がれたように見えます。

東京駅の出口名として定着した経緯

東京駅の主要な駅舎は、開業時から丸の内側に置かれていました。

東京駅東側の出入口が開設されたのは1929年(昭和4年)です。資料によって「八重洲口」「八重洲橋口」と表記されますが、当時、駅の東側には外堀を渡る八重洲橋があり、その橋へ通じる出入口でした。

戦後、外堀は埋め立てられ、八重洲側も大きく開発が進みます。出口の名称や位置も、その過程で整備されてきました。

現在の主要な改札には、丸の内北口・丸の内中央口・丸の内南口、八重洲北口・八重洲中央口・八重洲南口があります。このほかにも日本橋口や地下改札などがあり、開業時から現在と同じ構成だったわけではありません。

出口名は、それぞれの出口がどの街へ通じるのかを示すものです。名前をたどれば、その先の街の歴史にたどり着きます。

丸の内側と八重洲側は何が違う?

現在の街並みを比べてみます。

丸の内側には、赤レンガの駅舎と駅前広場が広がり、皇居へ向かう行幸通りが伸びています。丸ビルや新丸ビルなど、オフィスと商業施設が一体となった建物が並びます。

八重洲側には、大きな屋根のグランルーフがあり、地下には東京駅一番街や八重洲地下街が広がります。日本橋や京橋へも歩いて行ける距離です。

ただし「丸の内は歴史、八重洲は商業」と分けるのは正確ではありません。丸の内側にも大規模な商業施設があり、八重洲側にも江戸から続く街の歴史があります。

現地で確かめてみよう

両側を歩き比べると、性格の違いがよく分かります。

まずは丸の内側へ。駅前広場に立って駅舎を振り返れば、江戸城の郭内だった土地が、いまどうなっているかを一望できます。

東京駅丸の内中央口付近の表示
東京駅の丸の内側。江戸城の郭内に由来する地名が、現在も出口名として使われています。

次に、駅の中を通り抜けて八重洲側へ。同じ駅の反対側とは思えないほど、街の景色が変わります。

東京駅八重洲中央口付近の表示
東京駅の八重洲側。ヤン・ヨーステンに由来するとされる地名が、駅東側の出口名として定着しています。

八重洲通りには、ヤン・ヨーステンを紹介する記念碑が設けられています。見学する際は、横断歩道など一般の歩行者動線を利用し、車道へ立ち入らないでください。

まとめ

最後に整理します。

  • 東京駅の丸の内口・八重洲口の名前の由来は、いずれも江戸時代までさかのぼる
  • 丸の内口は、江戸城の堀に囲まれた内側の区域に由来する地名へ通じる出口
  • 八重洲口は、ヤン・ヨーステンに由来するとされる八重洲地区へ通じる出口
  • 八重洲の旧地名は駅の西側にあり、現在の町名は戦後に東側で採用されたもの
  • 東側の出入口が開設されたのは1929年で、当時は外堀に八重洲橋が架かっていた

出口の名前は、駅を挟んだ東西の街の歴史をそのまま映しています。

第15話では「東京駅で一番古い場所はどこ?」を紹介します。

参考資料

  • 千代田区「町名由来板:丸の内」
  • 中央区「八重洲一丁目・日本橋地区」
  • 中央区「八重洲二丁目・京橋地区」
  • 中央区観光協会「ヤン・ヨーステン拝領地の八代洲と八重洲」
  • 国立国会図書館デジタルコレクション「御曲輪内大名小路絵図」
  • JR東日本・東京ステーションシティ「東京駅 構内図・周辺案内図」

※明治初期の町名成立、1929年の町名改正、東側出入口の当時の正式名称については、千代田区史・中央区史および駅史資料での再確認をおすすめします。

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